いのちについて考える

写真は春分の日にみた日の出。
まだほんの3週間くらい前のことなのに、
ずいぶん前のようにかんじる。

コロナ感染が広がり、非常事態宣言がでているこのご時世で、わたしも職場と家の往復は自転車で(あいちゃんがアスリートみたいに自転車で走ってるの想像できない、と友だちに言われた。笑)あとは食材の買い物も週に1度いくだけにしている。
ほぼ誰とも会わない生活。
SNSでは繋がってるから、みんながどんな風に過ごしてるかは垣間見ることができるけれど。

以前このブログにも書いたように、
わたしは311で、明日死ぬとしたらどんな風に生きていこう。と思ったことをきっかけに、
できる限り自分が好きなことや、興味があることだけを選んで生きてきた。
それもあって、わたしは今ここで死んでしまっても後悔はないと感じている。

けれども、今回のコロナのことで強く感じたことは、大切な人を失う可能性があるということは、こわいことなんだなぁということ。

自分は死んでもいいのに
相手には死んでほしくない。
てどういうことなんだ、、としばらく考えていた。

それでなんとなく、こういうことかな。と
わかった(気がしてる)のだけど、
それは、
わたしたちはそれぞれが別の存在だけど、
結局はみんなでひとつの存在なのだということ。それは人と人だけではなくて、どんな存在も、みんなこの世界で繋がってるということ。

だから、自分のことだけでなく
周りの人たちのことを大切におもったり
失う可能性についてこわくなったり
それはとても自然なことだと思う。

コロナのことがあり、
地球はわたしたちそのものなのに、
経済優先で暮らしていたわたしたちの生活が
どんなに地球の環境を破壊してきたのかを考えさせられずにはいられない状況になった。

世界中で経済が止まったことで、空気がきれいになったり、水がきれいになったりしている。
本来の姿はそうであるのに、わたしたちはそれを見ずに必要以上のものを生産し続けてきたということが分かりやすく感じられる。

わたしたちは家族や友だちを失う可能性には
敏感だけれど、
地球そのものを痛めつけている、ていう感覚には鈍感だった。

わたし自身は、なるべくオーガニックの食材を選んだり、フェアトレードで作られた洋服を選んだりと、環境に負担のない暮らしをしてるつもりだったけれど、それは「わたし」の生き方で完結していた。

わたし、以上に、わたしたち。であることが抜けていた。
地球とわたし、ではなく、わたしたち。
家族とわたし、ではなく、わたしたち。
友だちとわたし、ではなく、わたしたち。

みんなでひとつ、という感覚になれたら、
愛しかない。
大切に思う気持ちしかない。

その観点で世界をみると、
どんな生き方をしたらよいか、自分の選択が変わってくる。

元々地球に優しい生活をしてるつもりではあったけれど、「わたしたち」という感覚に気がつけたことで、また一段と深く感じられるようになったんだなぁと思った。

そして、いまわたしは「すべては絶妙なバランスで均衡を保ってるから、大丈夫」という根拠ない安心感の中にいる。

今日は日の出の夢をみた。

一日一日めまぐるしく状況が変化してく今。
今日も一日を大切に生きる。


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