祖母の思い出と、自己肯定について

亡くなって今年で12年の祖母に、時々会いたくなる時があります。

街を歩いてるときに、おばあちゃんと孫娘のペアで歩いてる人を見かけた時などに、ふと、会いたくなります。
祖母は亡くなってるため、もう会うことはないですが、おばあちゃん的な人とつながりがあったら、楽しいだろうなぁと思う時もあります。

そんな気持ちになることが、時々あるので、
何故だろう?て考えてみました。
甘えたいのかな?とか。
それよりも、人生の大先輩のおばあちゃん的な人と関わることで、色々教えてもらえることが楽しいからだと思います。
祖母からもっと色んな話を聞いておけばよかったなぁと思います。

祖母は大好きな人ではあったけど、かなりの批判家で、よく傷つくことも言われたりしてました。
子どもを産んだときには、「子どもが子どもを産んだ」と言われてグサッときたり。
今考えると、ナイーブだったなーと思います。

よくケンカもしました。

でも、それもわたしが祖母に心をゆるしていたから、言いたいことが言えたんだなぁと思います。

祖母に、いくつか言われたことで、ずっと心に残ってることがあります。

ひとつは、
子どもは、神さまからの授かりもの。
大切に育てなさい。

ひとつは、
旦那さまのことを大切にしなさい。
(離婚してしまいましたが...)

ひとつは、
いつでも帰ってきていいんだよ。

家庭崩壊を経験し、留学生活で大変だった時に、大学を休学して実家に帰ったことがありました。
ぼろぼろだったわたしはしばらく家にいましたが、それでも、やっぱり香港の大学を卒業する。と決めて、香港に帰る日の朝、家族が運転する車に乗って発車した際祖母が追いかけてきて、いつでも帰っておいでーと叫んでいました。

娘が生まれてからは、祖母はひ孫に会えてしあわせだ、とよく言ってました。

まだ小さかった娘を実家の近くの公園に連れていって、滑り台を一緒にすべっちゃった!と話してくれた時に、おばあちゃん大丈夫なの?!と思いましたが、楽しかったんだろうと思います。

娘が車で不機嫌になって、泣いてたら、
祖母が歌ってくれたこともよい思い出です。

いつだったかよく覚えてないのですが、
ある時、祖母が台所でわたしの母に向かって、「あんたはあいを育て間違えた」と話してたときに、目の前で「育て間違えました」と泣く母をみて、わたしはとても傷つきました。

その時は、自己否定感が強く、わたしは受け入れられてないのだと、苦しくなりました。
母が泣く姿も、悲しかった。

数年前家族でカナダに旅行に行った時に思い切って母にその話をしたら、母が、祖母は死ぬ時まで、あいを育て間違えた。と言ってたよ。と言って、傷口に塩をぬられた感じがしました。でも、時間がたって、落ち着いて考えてみると、母はそのまま事実を伝えてきたのだろうし、その時傷ついたのは自己否定感が強かったわたしのこころの問題だったと気がつきました。

子どもは親が思ったようには成長しません。
こんな風に育ってほしい。の期待は、親のものです。
子どもは自分の考え方、感じ方をもっていて、その子がいいように、その子のペースで育ちます。
だから、親が、育て間違えた。
と感じても、それは、親の問題だと、
今のわたしは思います。

文章でうまく伝わるかわからないけれど、育て間違えられた、と、自分のことを親のせいにするのもなんか違う。と感じます。
わたしはわたしのペースで成長してきて、
この先もわたしのペースで育っていく。と思い直したら、母や祖母の気持ちをそのまま受け入れることができました。
育ち間違えた、て思ってたんだなぁて。

子どもの頃自己肯定感が低かったとしても、大人になってからの自己肯定感は、
自分で育てるもの。
人の期待に応えられなかったからといって、
自分がいけないんだ、と思うのは、違うということに気がつきました。

わたしは今、迷いながらもできるだけ自分の力で自分の道を生きていて、そうできている自分にいいね!と思っています。

それでいいんじゃないかなぁと思います。
少しづつ自己肯定できてる自分がいます。








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